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アイスハート

あの時、凍った私の心。炉心溶融。人を愛す心はいつ溶るのか。傷だらけの一片氷心の日常。

『陰翳礼讃』谷崎潤一郎/日本人なら絶対に読んでおきたい大文豪の随筆

読書/書評 読書/書評-エッセイ

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谷崎潤一郎というと、本をあまり読まない人でもその名を知るほどの、日本を代表する大文豪です。

『陰翳礼讃』は高校の教科書に載っていた時期があるそうですが、残念ながら私の記憶にはありません。

先月に親戚一同が集まる日があり、その際に某自動車メーカーのデザイナーをやっている従兄弟が彼の弟に「デザインをやる人間なら、一度は読んでおくべきバイブル」と、諭すように本書を薦めていた事から、本書に興味を持ちました。

人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。(本文より) -西洋との本質的な相違に眼を配り、かげや隈の内に日本的な美の本質を見る。

陰翳礼讃

陰翳(いんえい)とは陰影のことで、光の当たらない暗い部分つまり影であり、礼讃(らいさん)とは礼賛のことであり、敬い褒め称えるということです。

現代風に言うなれば「闇ってマジスゲーな」ということですね。

純日本風の家屋について

今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯(ガス)や水道の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気がつくことであろう。(7ページ)

陰翳礼讃が執筆されたのは昭和8年(西暦1933年)の頃で、その頃からすでに日本風の家を建てる事の難しさを、ひた説かれています。

今(2015年)より80年以上も前の事なので、現代ではなお一層困難になったことは疑いようも有りません。

当時(1933年)より、電灯にシェードをかけるより、いっそ裸電球にした方が味わいがあるとか、扇風機は日本風家屋には溶け込まないと説かれています。

中々賃貸物件でも全てが座敷の部屋、というのは昨今では珍しくなりましたし(当然、探せばすぐ見つかりますが)、新築物件であれば、なお珍しいと思います。

そう考えると、現在でも日本風家屋の多くが残る、京都や奈良、地方各地に点在する日本旅館、日本料亭については、その風格を保つだけでも並々ならぬ努力が成されている事が分かると思います。

厠について

或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが、必須条件なのである。(11ページ〜12ページ)

厠(いわゆるトイレ)について、大文豪が大絶賛し、思わず笑ってしまいそうではあるのですが、生まれた時から水洗トイレで育った、(残念ながら)ギリギリ昭和生まれの私でも、目を凝らして想像してみると共感できるものばかり。

現代のトイレは谷崎潤一郎の言う「風雅」で「花鳥風月」とは程遠い存在ですが、トイレで新聞や読書、あるいはゲームなどが”へん”に捗ったり、何かを思い出したり、思わぬアイディアが浮かぶような経験は誰だってあると思います。

これを西洋人が頭から不浄扱いにし、公衆の前で口にすることをさえ忌むのに比べれば、我等の方が遥かに賢明であり、真に風雅の骨髄を得ている。(12ページ)

皮肉の天才、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』第一篇『リリパット国渡航記』で、これを強烈に皮肉ったシーンがあるのですが、西洋人はトイレについて口に出すことを忌み嫌うようですね。

我々だってトイレに行くことを「花を摘みに・・・」なんて、ぼかして言ってられません。

西洋文化を取り込み失ったもの

つまり、一と口に云うと、西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障はや不便が起っていると思われる。(18ページ)

確かに、例えば今の文明が、全て大正時代と同じものだったとすれば、夏には衛生面の問題が、冬の寒波は今とは比べものにならないほどの甚大な被害をもたらしたと思います。

しかし、文明の利器(特に西洋文化)を取り入れた事で、失ったものは多いです。

母が静岡県のとある山里の出身で、小さいころ毎年お盆の季節になると、母の里帰りについて行き、文明から一歩遅れた環境で過ごした事をよく覚えています。

当時はテレビゲームも無ければエアコンも無い、そんな環境が嫌で仕方がありませんでしたが、今では貴重な経験であって、また惜しかったとも思えます。(最近リフォームしたそうです)

自然の環境がそのままに残る地方を訪れた際、どこかノスタルジックな気持ちになるのは、西洋文化で生まれ育った私達の中に、古来日本人の血が流れているからかもしれません。

光りものについて

われわれは一概に光るものが嫌いと云う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。それは天然の石であろうと、人口の器物であろうと、必ず時代のつやを連想させるような、濁りを帯びた光りなのである。(22ページ)

様々な、周囲の日用品を用いて、陰りのあるものをひた賛えます。

「どういうこと?」という人には、下記の引用が特に共感できると思います。

われわれが歯医者へ行くのを嫌うのは、一つにはがりがりと云う音響にも因るが、一つにはガラスや金属製のピカピカする物が多過ぎるので、それに怯えるせいもある。(23ページ)

目からウロコでした。

私も歯医者が嫌いで(好きな人はまずいないと思いますが)、それは薬品臭いあの空間のせいと考えていたのですが、確かにあのシルバーのトレイや医療機器、口元を照らすスポットライト、リクライニングチェア、清潔感はあるものの、どれをとってもピカピカといやらしく光る物で、想像するだけでも寒気を覚えます。

他にも、紙や病院などを例にとり、日本人がいかに光を反射するほどに磨き上がった物・環境に適合していないかを言葉(文章)巧みに、私の共感が1つ1つ出し絞られます。

「闇」と漆器について

「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。(24ページ〜25ページ)

私は漆器の椀というものを、使ったことがありませんが、蛍光灯の明るさの下より、間接照明だけで演出された空間など、闇と陰を取り入れた空間の方が、溶け込む事は想像に難くありません。

「わらじや」へ行ったことはありませんが、学生時代に訪れた春の京都で食事をした、有名な豆腐料理店が行燈式の電燈のみという空間で、まるで自身の体が空間と一体化したような不思議な経験をしたことがあります。

それが蝋燭のみの照明で、もっと静寂に包まれた空間であったのなら、より深い瞑想ができたに違いありません。

【参考】

「闇」と羊羹について

かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢見る如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。(中略)人はあの積みたく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも部屋の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。(28ページ〜29ページ)

コンビニやスーパーのお菓子コーナーでも、隅の方に追いやられた、和菓子たち。(置いていない事すらあります。)

親戚の家を訪れた際に出されたら食べますが、現代人は中々自ら進んで自分のために和菓子を買う、ということは少ないと思います。

しかし、あの光を吸い込むような何とも言えない彩りを思い出すと、確かに洋菓子にはとても真似をすることができない物である事に気付かされます。

近年、「和食」が注目を浴び、ユネスコ世界無形文化遺産に登録された事は記憶に新しいと思いますが、羊羹のような「和菓子」もまた、健康的で美しい、私たち日本人にとっては大切な文化の1つであることは間違いありません。

建築について

美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に済むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては日の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡に依って生まれているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、ただ灰色の壁があるばかりで何の装飾もないと云う風に感じるのは、彼らとしてはいかさま尤もであるけれど、それは陰翳の謎を解しないからである。(31ページ〜32ページ)

私の実家の一角に、仏壇が置かれた広い日本風の部屋があるのですが、確かに純日本風の家屋には昼でも至る所に薄暗さを感じます。

子供時代の私は、そんな薄暗い空間が苦手でしたが(仏壇や遺影の存在感もあったと思いますが)、つい最近その部屋で少なくない時間を過ごす事情があり、あれからずいぶん歳を取った事もあると思いますが、ぼんやりと「いい部屋だな」と感じたものです。

今から新築で家あるいはマンションを購入する人でそういった、日本風の空間を一角に作る人は少ないと思いますが、それはそれで何だか損をしていると言えるかもしれません。

その他の収録作品

  • 懶惰の説
  • 恋愛及び色情
  • 客ぎらい
  • 旅のいろいろ
  • 厠のいろいろ

文豪の愚痴っぽい話しであったり、旅の楽しみ方であったり、結局最後は厠(トイレ)の話しに終わったりと、実に面白く良い随筆ばかりでした。

全てを紹介していると、長くなりすぎるのでこの記事では割愛します。

総合的な感想

『陰翳礼讃』から多くの引用を紹介しましたが、ジャンルで言えば紛れも無い随筆(エッセイ)です。

読んでなるほど、デザイナーのバイブルと呼ばれていた事も頷けます。

さて私たちが、電気やガスといった文明の利器を享受し、西洋文化で生活は便利になったことは疑いようのない事実です。

しかし一方で、失ったものの多さ、それでもなお残り続ける陰りあるもの、その陰翳の美しさ、それらをここまで丁寧に深く考えられた作品は、これまで読んだことがありません。

昭和初期の作品ではあるものの、文章も非常に読みやすく、肌に溶け込んでくるような感覚を味わいました。

大文豪の作品だから、とかそういうことじゃなく、日本人なら絶対に読んでおきたい1冊です。

最後に、『陰翳礼讃』の最終ページから引用。

私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見えすぎるものを闇に押しこめ、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。(65ページ)

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